やっぱり、尾崎豊が好き。

中学生の頃に、尾崎豊のベストアルバムを聴いて、あまりに暑苦しくさと痛さに、辟易した。
だが、時は経ち、今となってはアルバム「17歳の地図」は人生のオールタイムベスト10に入ると断言できる。

今日は、仕事でむしゃくしゃする事があった。社長と上司との飲み会でも、むしゃくしゃする事が続いた。雀の涙程の昇給で、色々と委ね無いで欲しい。私には偏見に基づいた独断しかできない。私が何を言おうが、説教の流れに持って行かれてくたびれた。会社の事なんてどうでもいいよ。年配者は酔っ払ってそれっぽいこと言って気持ちよくなりたいんだよな。甘えるなよ。本当に答え欲しいなら、私に聞くより、Chat GPTに聞いた方がいいよマジで。一言何か言いたいのなら、AI Vtuberにスパチャして、構ってもらえよな。

だから、帰りの電車に乗って尾崎豊を爆音で聴いて、心を落ち着かせた。むしゃくしゃする時に尾崎豊は染みる。アルバム「17歳の地図」は最高だ。雨上がりの煙草は美味しい。
ほんと、私が私である限り勝ち続けなきゃならないよなあ、なんて思ったりして。
アルバムの再生が終わるとSpotify松任谷由実の「やさしさに包まれたなら」を流した。
〜小さい頃は神様がいて不思議に夢を叶えてくれた〜
なんて歌っているけど、大人になった私には神様もいないし、不思議に夢も叶わない。

こんな戯言をほざいているけど、シャワー浴びてひと眠りすれば、また電車に乗って労働するんだ。吐き気がするけど、神様はいないから。仕方ないと思って日々をやり過ごす。

結局、無責任

私には、座右の銘が二つある。
「この世はタイミングにC調に無責任」
「やめちゃえいっそ嫌なことなんて全速力回避せよ」
力みすぎてる時や、考えすぎている時に、この言葉を思い出して、気分を転換するのだ。
身軽にふわっと生きることに、憧れを抱くのは、鈍臭く粘着質な性格故かもしれない。

いかに省エネで、軽く生きるかをモットーにしている。
教師には
「あなたみたいに、要領良く生きようとする人が1番嫌いだ」
と言われたし、職場の上司には
「本気で努力した事ある?無いよね?ふざけてるの?」
と言われたりしてきた。

だが、私に言わせれば、目標に向かって1+1を積み上げで10000数えるような努力を美徳とする彼らとは、そもそも、思考のベクトルが違うので、関わりを持たない方がいいとすら思っている。

夏目漱石の「こころ」に出てくるKは、求道者になるというこだわりに囚われて身動きが取れなくなった。道を外した要因である、恋の道も閉ざされたため、死んでしまった。こつこつ積み上げてきた今までの道のりと、それを捨ててまで進もうとした恋の道のどちらも閉ざされて生きていけなくなったのだろう。

プロ野球 戦力外通告」に出てくる、人達のプロ野球への執着度合いが、理解できない反面、ほんのちょっと0.1ミリくらい羨ましくも思う。たまにある、プロ野球以外の道に進む選手の回がとても好きだ。

タイミングと調子と運と元々のポテンシャルに左右されるものに、しがみついて生きるのがおそろしい。
何かに人生を賭けることができない。ビビりで臆病ものなのだ。
なので、賭けて負けたものをみて、安心したいのかもしれない。

なんにせよ、毎日楽しく暮らせればそれでいい。

だが、最近職場に、無責任極まりない人物が現れた。
その行いを見るたび、尻拭いをするたびに、私も少し考えを直さなくてはと思うようになっていたりする。

責任主義をいっそやめちゃおうか??

ようこそ、中年時代

とっくの以前に二十代は過ぎた。
脂肪と弛みを手に入れた代わりに、謙遜と繊細さを失ったように思う。
逞しいおばちゃんは、こういった酔っ払った終電帰りに、繊細さを取り戻し、こうして駄文をしたためている。恥ずかしい事だけれど。
明日も仕事だけれど、なんとかなるだろう。

二十代の頃の目指していた大人の姿、もしくは最悪を想定し、覚悟していた大人の姿のどれにも当てはまらない今の姿に、戸惑っていたりする。
昔から今に至るまで、大した狂気も才覚も持ち合わせず、絶妙にズレた価値観を大切に持ち続けて生きている。

先日、ニコのドキュメンタリーをYouTubeで鑑賞した。
https://youtu.be/R1vkiQdEU7M
その中で、インタビューに答えてた1人が中年になった彼女に対して「彼女はただの、メランコリックな中年ジャンキーさ。痛々しいね。」
と言ってた(朧げな記憶だが)ので、泣きそうになった。
彼女が若い頃は、その不安定さも魅力で、ミューズとして持ち上げられていたのに。哀しくてやりきれない。

そういや、鈴木いづみの死の直前の手紙にも、「そろそろ生活を立て直さなくては」という文脈の文言があり、これにも泣けた。

彼女達が彼女達のまま、無軌道に奔放に生き続けて、賞賛される道は無かったのだろうか。
自己の繊細さと、付き合い続けるのは非常にしんどい。
忍耐力も真面目さも、真摯さも無い私は、早々に繊細を投げ捨ててしまった。それで良かったとも思ってる。

若く美しい人物の繊細さ、不安定さは芸術となり、賞賛される。だが、期限付きであるらしく、中年以降は、安定したメンタルを保ち、生活を保たねばならぬらしい。哀しい事だけれど。

私の性格的に若い時よりも、おばちゃんとして生きる今の方が、生きやすい。繊細さは、たまにこうやって、持ち出して弄ぶ程度の付き合いがいい。
だけれども、ニコの調子外れな歌声を聞くたびに少し泣きそうになる。

三十路の夏休み

気がついたら三十路になっていた。

推しのアイドルの新曲の配信リリースに興奮し、眠れなくなりケータイをいじっていたら、このブログを見つけてしまった。
書いてた記事は、恥ずかしくて読めたもんじゃ無い。

若い頃はあんなにイキっていたのに、気がついたら会社規模だけはデカい、ファッキン中抜き業に従事していた。一部上場企業の肩書きを誇り、労働者から搾取するだけのお仕事。そして私もまた、使い捨てのコマに過ぎないのだ。
心は腐ってしまったが、正気を取り戻し退職した。ブルシットジョブは辞めるに限る。
だが、腐った心は新鮮には戻らない。

夏休みを満喫した後、無事就職したが、気分はまだ夏休みだ。今年はまだ暑いので、ボブマーリーを聴きながら夏を惜しみ、ニールヤングのHarvestを聴きながら秋を迎える回はまだしていない。

家族も寝静まった後、BeatlesAbbey roadのB面を聴きながら、少し岡崎里美の事を考える。

風呂も入らなきゃだし、歯磨きもしなきゃだし、ねえ。

要求は素直に正確に。

 誰かと過ごしているとき、その相手が自分に対して要求している事が明確にわかる時がある。それを、一度汲み取ってしまえば、要求を言語化しなくても読み取ることが当たり前になってしまうのだ。


 阿吽の呼吸なんてものは、思いやりの上での言語による意思疎通の繰り返しによって出来上がったものであり、それをハナから求めるなんて横暴すぎる。


 横暴者は自分の要求を汲み取ってもらうことで満たし、汲み取られなかった時は思いやりが足りないと不満を漏らす。

 そのくせ、要求を言語化する者に対して、わがままだとか暴力だとか喚き散らす。わがままに暴力を振るってるのは誰なのか?自分だなんて事は考えもしない。

 横暴者は、自分が横暴だなんて思ってもいないので、他者にも言語化されていない欲求があると思い込んでいる。そういうやつらが、不安そうに顔色を伺ってくる様子、表情が嫌いだ。

 言語化されている要求を真の要求だと思わず、裏の裏を読もうとして要求とは違うものを渡してきたりするので腹が立つ。

 

 上記の人物に自分が当てはまっていて色々と疲れてしまった。横暴者は私だ。


 もう、疲れ果てたので自分の要求を素直に言語化したら楽になった。自分の要求スタイルがそうである限り、他者の言語化されているもの以外を読み取る必要なんてない。

言語化しないてめえが悪い。


 言語化した欲求が通らなかった場合、何故ダメだったのかの原因追求、必要であれば改善が出来る事に気付きさらに楽になった。


横暴者は丁重に無視をすることに限る。


 

前衛的になりたい。

 欲しいと思っていたコムデギャルソンの香水を試しに腕に振りかけてみた。直ぐに腕のにおいを嗅ぐと、カレーライスのにおいがしたので、今日の晩御飯はカレーライスにした。食べ終わってしばらくして、腕のにおいを嗅いでみると、乾いた涎のにおいがして、悲しくなった。

 私はカラス族にはなれない。前衛的な女になりたかったのに、生活臭くてかなわない。


 少し前に仲良くしていた男は事あるごとに、「君は家庭的だね。」と言ってきた。私は必死に、自分が家庭的ではない事、男も半分家事をやるべきだと何度もプレゼンしたが、男の意見は変わらなかった。それでも、その男が好きだったので、野暮ったく伸びた髪を好きだと言ってくれたので伸ばし続ける事にし、石鹸のにおいのする香水をふりかけていた。


 プレゼン通り、家庭的でない事が男に伝わった時に、そいつは去っていったので、家庭的に見える要素を無くしてやろうと断髪した。断髪をすれば、大島美幸のような、どっしりしたオカン感が出てきてしまった。無いファッション知識を振り絞り、前衛的なイメージの強いコムデギャルソンの香りを纏おうと思い、デパートへ繰り出した。


 前衛的な香りは、私の体臭と混ざり、腕からはカレーライスのにおいと涎のにおいがして来た。

 

そもそも前衛的ってなんだ?

あれが、分岐点だったのだ。

別に「今」に不満を持っているわけではない。
むしろ満足していて、「今」に至るまでの過去にも感謝している。
けれどもふと、あのとき、選んだものと違った方を選んでいたら…?と思うシーンが一つだけがある。その時は足るに足らない、小さな選択だったんだけれども、何度も何度もそのシーンを思い出してしまう。

6月の末くらいだったと思う。緑色の半袖トップスにレースのミニスカートにレギンスを身につけ、茶髪のストレートロングヘアーでつけまつげをしていた私は、飲み会の帰りの電車を、駅まで送ってくれたAと改札前の階段でおしゃべりしながら待っていた。目的の電車にのりそびれ、次の電車までは20分位あったのだ。
10分位おしゃべりをしていたら、駅にBが来た。Bは私たちを見て少しからかいつつも、一緒にいたCを私たちに紹介した。居づらくなったのか、Aはそそくさと自転車でその場を去ってしまったので、BとCと改札の中へ入った。Bは逆方向の電車に乗る予定だったので、Cと一緒に電車に乗った。

細かい情景まで覚えていて本当に気味が悪い。この、シーンを何度も何度も思い出してしまう。目的の電車に乗れていたら?と、Bと遭遇せずにCと出会わなければ?と、Aともう少し話が出来ていたら?と、ふと考えてしまう。

その後Cと親密になり、Cが連れていってくれた先で、絵にかいたような廃退的な青春を送る事になる。

もし、この時どこかで何かが違っていたら、絵にかいたようなキャンパスライフと模範的な青春を送っていたのかもしれない。
そしたら、今どうなっていたのだろうか?

風邪を引いて寝込んでいるので、そんな事ばかり考えている。

おわり。