惰性は友達の内の一人です。
何もしたくない。向上心なんてものもない。惰性だけが友達だ!だらだらだら。
希望も期待も願望すらない場合、何をどうすればいいのかわからない。ふとしたときに誰かが「あなたは、これをしなさい」と決めつけてくれたら楽になれるのだろうか。
「いやだ、いやだ」なんて呟きながら決められた事をこなして、回りには人がいて、その人々に誉められたら、満たされるのかしら?ねえ?なんて思ったりして。
頑張らないことが罪、成り上がる事こそが正義だなんて重たすぎる。惰性に身を任せ、ふわふわしていたい。頑張って勝ち取るなんて疲れる。そもそも頑張るってなんだよ。耐え続ける事なのか?
希望や願望や目標が無ければ、努力なんてしようが無くて、頑張る=忍耐になってしまう。向き合うとか踏み込むとか、何に対して?なんて思ってしまう。
ふわふわしていたい。全てが正しくて、全てが間違っている。
頑張らないと存在が勝ち取れないなんてつらい。
ふわふわと存在しているのに。
核心とか真実なんて都合よく書き換えれるものだと思う。書き換え尽くされた物語が好き。何通りにもこねくりまわして楽しむのだ。
数式か素粒子か物語しかないのだよ。
フランス人じゃないから、服は沢山必要だったみたい。
いらないものといるものの区別がつかない。ピカピカのあまり着ない服と、ヨレヨレの毎日着る服。どっちがお気に入りか?と聞かれたら答えに困る。だけれど明確に必要なのはヨレヨレになってしまった服である。だけれどそれを買い替えることをしないで新しいモノを求めてしまう。そしてまた服は増えていき、お金は減っていくのだ。
最近は人のお買い物に付き添うことが多い。自分の物は全く買わず、人が買っていくのを見守るのみ。アドバイスも口出しも何もしない。見てるだけ。そして、買い終わったあとに、「良いものを買いましたね」というのみ。
何回もその現場に立ち会うたびに、自分の買い物について考えるようになっていく。
人はいつも何かを求め、毎回妥協して同じような何かを買っていく。満たされない心を妥協で埋めているように見えて悲しくなる。私も買い物をしているときはそのような感じなのであろうか。
そうして、妥協で手に入れてた何かは私のところに回って来ることが多い。それらは私をとても困らせる。だが、それらを処分するたび自分の持ち物について考える。自分が妥協して手に入れた物を見るたびに辛くなる。他人の妥協を受け入れることに疲れているくせに、自分自身が自分に妥協したものを与えていることを目の当たりにしているからだと思う。
今まで白いコートを通算5枚以上貰った。けれども、私は白いコートを欲してはいない。白いコートが欠乏している風貌をしているのか?と悩んだが自分にとって不必要である。妥協していたら毎日白いコートばかり着ることになる。私は私に白いコートを与えたくない。
妥協し過ぎると、他人のゴミで自分が埋まってしまうぜ!白いコートしか着ることが出来ない。
必要なモノだけが欲しい。
おわり
期待には泥水をぶちまける
「頑張れ」「君の為になるよ」「期待しているよ」なんて言葉で包み込んでくるなと思う。そんな甘い言葉を投げ掛けて、「頑張らなかったから」「期待外れだ」なんて言ってポイと捨てるんだ。他人で夢を見るなと言いたくなる。
大体、「期待している」って言葉には、自分が見られなかった夢を見せてくれという思いか、自分を越えない程度に自分のプライドを傷付けない枠の中で、最大限のパフォーマンスを見せてくれという厚かましい思いがぎっしりと詰まっている。
勝手に夢見て、勝手に捨てる。
いつもいつも捨てられるのが怖いから、それなりに努力するけれども、肝心なところで飽きて投げ出してしまう悪癖がある。
私も勝手に期待して勝手に捨てているのだ。
自分が無いから、軸がないから。他人の言葉にすがり、分かるフリ、努力しているフリをする。だが、フリはフリで鍍金が剥がれていき、修復するのも面倒になり、やがて爆発する。その繰り返し。
草臥れた。
てめえの欲しがっている言葉と、浮世離れした感性とイカれた価値観は全て作り物で、よそからの借り物だ。コピー&レッカーペースト。欲しがるならてめえで読書なり映画なりを観て手に入れろ。
なーんてね。
終わり
さようなら、サブカル少女。
特別な人間になりたかった。
「今は、ジム・モリスンだとかジャニス・ジョップリンだとか言ってるけれども40越えたら嵐にキャーキャ言うんだよ」
18歳の私のiTunesを見ていた、元オリーブ少女の叔母はこう言った。
容姿、頭脳、共に並み以下。努力が嫌い。それでも、特別になりたかった。
そんな中、思い付いたのが、お洒落だと思われる映画や音楽や小説を身に付けることだった。知っているだけで、観たと、聞いたと、読んだと、言うだけで自分がお洒落で特別な人間になった気がした。「誰もが知らない、お洒落で素敵な事を私は知っているのよ。」と得意げになった。
それらのカルチャーが好きなのではなく、それらを身につけた自分が好きだったのだ。
お金が沢山あれば、それらの虚栄心はブランド物で着飾ることで満たされたと思う。
カルチャー達は何も手に入らない、持っていない私を満たしてくれた。
だが、いくら貪り食おうが、自分が素敵になったわけではなかった。
作品名の羅列、批評めいた言葉、カリスマ性の拝借。披露し合う知識、コピーされた言動、空気感の共有。
特別になりたがる私の悪癖は、今も健在で治りそうにない。困った持病として手元に持ち続ける。
とっくに前に、少女とは言える年齢ではなくなった。さようなら、サブカル少女。
おわり。